ふつうの暮らし〜シニアな毎日

シニアのふつうの暮らしを綴ります

子育ての極意…自信なさげに

子どもたちは三人とも成人して子育てはとうに終了しています。


芸能人のご子息が問題を起こすと、もう30歳も過ぎているのに、親の責任を問われたり、とうに終わった子育てにいちゃもんをつけられたりしています。

仕事にかまけて愛情不足の所以であると言われます。



果たして当人は、子育て現役時代に、子どもに愛情をかけていないという自覚を持っていたのでしょうか…

有名人でなくても、図らずも子どもが犯罪やそれに至らずとも問題行動を起こしたときに、愛情が足りなかったのだ、とは後から思うことであって、問題か起きていない時から、愛情が足りていないとは思わないでしょう。



同じ理屈で、子どもが特に問題もなく成長した親も、子どもを育てている時に、愛情たっぷりであるからこの子は良く育つに違いないと思わないでしょう…


いや、思っているかもしれませんが

何か事情がなければ、大抵の親は愛し方が異なれど我が子を愛しているし、自分なりに可愛がって育てていると思います。


可愛くなければ面倒な子育てをやる気になりませんしね…



愛情は過不足より質の方に比重がありそうですか、それならどんな愛情の質が良いのかは、百の親子があれば百通りなのだろうと思います。



愛情が足りているとか足りていないというのは、当事者には判断がつき難く、実態のないふわふわしたもののようにも思います。



それにもかかわらず、肥料をたっぷりやったからいい花が咲いた、みたいにわりと単純に過不足の是非が語られるなあと思います。



私のように、すでに子育てが終了した者が、愛情たっぷりに育てると立派な大人になりますよ、と語ってしまうのは結果論に過ぎないと思います。



子育てを終えた経験者として、いえるのは、


いいと思うことをやりました。

間違えたら仕切り直して、その繰り返しです。


くらいでしょうか。


これでは、自信なさ過ぎですかねえ…




田植えの済んだ水田に映る山

母の日に寄せて

母には四人の娘がいます。

その四人がそれぞれ母に対してどんな感情を抱いているか…



それらについて語り合ったのは、退職して数年後気力も体力も目に見えて落ちた母が、四人の娘に息子夫婦の愚痴を延々こぼすようになってからでしょうか…



気丈で真っ正直で働き者で、おしゃれで茶目っ気もある母は、自信に溢れ娘たちの前に君臨していました。



人の悪口や愚痴は大嫌いと豪語していたのに、何という体たらく、母はきっと、理想のお姑さんになると信じていたのに。



私たちは、時に母に説教をしました。


それは一方的な見方ではないか、事実と想像は分けて考えなければいけない、人の行為を悪意に受け取るものではないなどなど、これら全て母が教えてくれたことです。



ところが母は、冷たい娘だ、こんな酷いことを言われるとは思わなかった、死んだ方がマシだと泣き出すのです。



私たちは疲れ果て、母のいないところで話し合いました。



母について姉妹で語り合ったことがなかったので、それぞれがどう思っているのかお互い知りませんでした。 



そうしたら出てくるわ、出てくるわ…



母に対する幼い頃からの積年の恨み辛みが。



私は男児ばかり三人産んで良かった!と思いました。

弟はひとり母を庇うからです。



それで、ある時期に於ける娘たちの"母の評価"は著しく下落しました。



精一杯育ててくれていると思っていたのに、勘違いに過ぎなかったのか?

私たちはしょんぼりしました。




けれども、それから数年して、いよいよ自転車で出歩くのも困難になり、退職後に喜んで通っていたアルバイトも辞めざるを得ず、通う病院や薬の量が増えてくると、三番目の妹を中心に私たちはぐっと、母に優しくなりました。



積年の恨み辛みも、言動と行動が伴わないのも、自己評価が高すぎるのも、どうでも良いことに思えてきました。



それよりも、穏やかな最期を迎えてほしいのです。



四人の娘と息子を授り幸せな人生だったと振り返らせてあげたい…母が未だ見続けている夢をそのままに。



そう、終わり良ければすべて良しなのですから。





母に良く似合う口紅の色のバラ

コンビニ人間〜オーディブルで聴いた感想です

を読む時間がなかなか作れないので、キルトを作りながら音声配信を聴いています。
Youtubeでは、青空文庫を朗読している朗読カフェというチャンネルを登録しています。
オーディブルというのは、Amazonの音声での読書サービスです。



5年くらい前に契約しましたが、今年の春頃からは月額1500円でほとんどの読みたい本を耳で書くことができます。
ながら聞きなので、あまり頭には入ってきていませんが、ミシンをかけている時にラジオ代わりに流して楽しんでいます。


コンビニ人間は、作者のこともあらすじも知らぬまま聴きました。
タイトルからは、コンビニに足繁く通っている人の話かな?とか、
あるいは、コンビニエンスな人間、つまり手間がかからず重宝で好都合な人の話だろうか?なんて
少しのひねりもない想像をしていました。


もちろん、全く違っていました。
コンビニで働く、というか、コンビニでしか働けない、もっといえば、コンビニで働くことに適応している、不特定多数ではない個人のお話でした。


コンビニエンスストアで働くのはそれほど難しくはないのでしょう。
勤務時間に制約がある学生や主婦の手軽な仕事先でしょうし、近頃は私のようなシニアもよく見かけます。
売り込みには出かけず、店でお客を待っているのですから、マニュアル通りに行えば特別なスキルは必要なさそうです。


だから世間は、コンビニでしか働けないことを頭から無能と決めつけている。
しかし聞くうちに、コンビニでしか働けなくて、何が不都合だろう?という気持ちになります。
それどころか、コンビニの業務が楽しくやりがいのある仕事に思えてきます。



彼女は、誰かの口真似をして、誰かの気持ちになりすまして、世間を渡って行きます。
彼女自らの思考に基づく行動が世間に受け入れられないことを知っているからです。


おそらく、彼女は社会に適応できないなんらかの障害がある、ということでしょう。


それを仄めかしてあるだけなのは、著者自身がそれを病気や障害と捉えていない故なのか…




彼女はコンビニで働いてさえいれば幸福であるどころか、コンビニで働かなくては生きられないほど、コンビニに適応しました。
それは抗いようのない彼女の真実です。


周りの人たちは大真面目に、彼女に指南や説教をするけれど、恐ろしくみな同質です。

 

彼女は自らの意志を通して再びコンビニで働くことを決めました。


そうなんですよね…瑣末なことはどうでも良いのです。

最も大切なことだけ守れば、人生はバラ色に違いありません。